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2000年02月
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2000年02月27日

大学の教養教育に再評価の声、学問の原点に回帰-国際基督教大学絹川正吉氏(教育)

日本経済新聞(2000/02/27)

 大学における教養教育(リベラル・アーツ教育)の重要性を再評価する声が強まっている。リベラル・アーツ教育をカリキュラムの中心に据える国際基督教大学(ICU)の絹川正吉学長に寄稿してもらった。
 最近の教育論議の中で、しきりに大学の教養教育が取りざたされている。財界人の提言でも、たびたびリベラル・アーツの必要性が説かれる。一昨年の大学審議会答申「二十一世紀の大学像」でも、教養教育の重視が主張された。しかし、そのような教養重視の主張とは相反する現象が目立っている。一九九一年の大学設置基準のいわゆる大綱化で、教養課程は、ほぼ崩壊したといわれている。旧帝大系国立大学の大学教員の所属は、いまや学部ではない。もちろん教養部でもない。教員の身分は一様に「大学院研究科教授」である。
  掛け声だけの文部省
 教養教育を担う学部に専任教員は必要なくなったのであろうか。そうならば旧帝大系国立大学は学部を廃止し、すべて大学院大学にするほうが有効であろう。ただしその場合には、専任教員席の半数は任期制教員枠とし、すべての大学教員に開放する。私立大学教員も一定期間その教員枠を用いて研究を行い、任期終了後は原籍の大学に戻れるシステムにすれば、大学教員の流動性は高まり大いに大学は活性化するであろう。
 夢のような話は別にして、そうした状況を見ていると、とても教養教育を重視しているとは考えられない。それだから、大学審は教養教育重視を声高に主張しなければならないのであろう。そうならば、掛け声だけでなく、文部省は教養教育を奨励する文教政策を提示・実行すべきであるが、そういうしるしも全く見られない。文教政策の重点は大学院の充実に絞られている。大学審は、学部教員にこと細かに教育方法を示し、叱咤(しった)激励はしてくださるが、肝心の兵糧は用意してくれない。
 具体的にいえば、リベラル・アーツ教育は、少人数教育が重要な条件である。学生納付金が主要財源である私立大学では、リベラル・アーツ教育はしたくてもできない。少人数教育を犠牲的に実行している大学に、助成金をせめて現状の倍額にする、というのであれば、文部省が本気で教養教育を推進しようとしているのだと実感できよう。
 大学審は教養教育の重要性を、「課題探求能力」の育成という観点に立って、主張している。すなわち、「学術研究や技術革新の進展、国際化・情報化の進展」にともなって、「課題探求能力」を備えた人間を養成することが緊急に必要とされている。いわば知識・情報化産業のための人材育成が目下の急務であって、それにこたえる教育をすることを要求している。そこに、教養教育の重視という主張の底が見えてくる。
   魅力に乏しい科目
 さて、他人を批判するだけでは、責任は全うされない。大学は教養教育を重視しているか、自己点検・評価をしなければならない。多くの大学生にとって、いわゆる教養科目は少しも魅力的ではない。教員を専門学部に分属させて教養課程を解消し、代わりに全学的出動態勢で教養教育を行うとする大学が続出し、教養科目名が華々しい名称に変えられて登場した。その結果、学生の興味を引き、教養教育が推進されたかというと、そうはなっていない。教養教育の責任主体が不明確になっただけであるという。科目名を変更しても、実体は旧態のままであることを評して、「浴衣をほどいてワンピースに作り替えた」ことだ、と言った大学教員がいた。言い得て妙である。もっとも、この比ゆは敗戦直後の生活苦の経験者にしか通用しない。
 そもそも、教養とかリベラル・アーツとかいわれていることが一様ではない。大学審答申は、「学問のすそ野を広げる」ことが、教養教育の目標の一部であると述べている。学問をほとんど知らない大学生に「学問のすそ野を広げる」ことが、差し迫った必要になるのであろうか。大学教員がこのような課題に耐えられない。「学問のすそ野を広げる」ことは、せいぜい知識の集積の度合いの拡大を図ることにしかならない。今日の大学教員に、ソクラテスやプラトンのような存在になれ、といっても無意味である。そこで、原点に立ち返って考えなければ混乱の正体がわからない。
 学問という営みは、数千年の歴史を紡いできた。そのつながりの厚みのなかで、現代の学問が存在していることを忘れることはできない。その歴史をさかのぼると、学問とは「いかに生きるか」という問いから出発している。したがって、諸学問の成果は「いかに生きるか」という問いに答えるものでなければならないはずである。しかし、専門分科した現代の学問は、いかに生きるか、という問いに直接に答える位置を喪失している。この視点に注目する。教養とは、本来はいかに生きるか、という問いに答えるアーツである。学問はそういうアーツであるはずである。とすれば、教養教育とは、まずは学問という人間の営みに参加することを抜きにしては、実体を持つことはできない。
   生のよりどころに
 それでは、現在の大多数の学生が学問それ自体に興味と関心をもっているだろうか。かつての学歴エリートの教養主義、すなわち読書が教養であった時代ははるか昔で、学生の圧倒的関心は教養からエンターテインメントにシフトした。しかし、そういう状況であればこそ、かえって原点回帰が必要ではないか。現代の学問を、「いかに生きるか」という問いに立ち返らせる営みが必要なのである。
 教養教育は、幅広い知識を授けることではない。学問という営みを、「いかに生きるか」という問いの前に立たせることである。例えば、「憲法の学習も、ただ条文を学ぶのではなく、よりよく生きる人間のアートの生きたよりどころとして、原理的にも把握し直すような学び方に変えることである。あるいは、よりよき生を送ろうとする人間は、政治的であらざるを得ない、そういう視点で政治学を学ぶ。そのような政治学の学習は、ただ政治の原理を暗記または理解することにはならない(原文・立川明)」。
 一般的に言えば、教養教育とは「しっかりした学問的背景、方法論を持つ学問的営み」を、現実世界において意味付ける文脈的学習である。そのような学習テーマを、ICUでは、「行動するリベラル・アーツ」という標語で総括し、現代におけるリベラル・アーツ教育のカリキュラムの展開を試みている。
国際基督教大学学長絹川 正吉


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2000年02月08日

東工大、定年65歳に延長、私大の受け入れ減に対応、2002年から-東大なども

日本経済新聞(2000/02/08)

 東京工業大学は、教育・研究実績のある教員の有効活用を目指し、現在六十歳の定年年齢を二〇〇二年春から段階的に引き上げ六十五歳とすることを七日までに決めた。年金支給開始年齢の引き上げに対応するとともに、私大の人件費削減に伴う定年年齢引き下げで再就職先が減少している事情にも考慮した。東京大学も六十五歳への定年延長を検討しており、高齢化や大学を取り巻く環境の変化は、国立大の教員の雇用制度の見直しを迫っている。
 東工大は、第一段階として定年年齢を三年延長する。その後、三、四年かけて六十五歳まで引き上げる予定。これに伴い、ポスト不足が懸念される若手教員の研究環境の改善や教員の評価・選考方法の見直し、任期制の導入も検討する。
 「高齢化時代を迎え、六十歳を過ぎても現役として活躍できる能力のある教員を生かすのが狙い」(同大)だが、背景には雇用環境の変化もある。
 東工大の教授は約三百七十人で、毎年二十数人が定年退官している。関係者によると、五、六年ほど前から再就職先が見つからないケースが目立ちはじめ、最近ではその数が定年退官する教官の三割前後に上っているという。
 要因の一つが、有力な再就職先となっている私立大のリストラ。上智大が七十歳まで雇用する特例制度を廃止するなど、少子化による学生数の減少で経営環境が厳しくなっている私大では、人件費削減から定年年齢を引き下げるケースが相次いでいる。また、私大内で自前の教員が育ってきたり、社会情勢に応じた学部改組が進み、専門分野によっては、国立大を定年退官した教員に対する“ニーズ”が減っているという。
 こうした中で、東京大も昨年夏から六十歳定年を六十五歳まで引き上げる方向で検討を始めた。三年に一歳程度の割合で段階的に定年年齢を引き上げていく方針で各部局からの意見聴取を進めており、二〇〇一年度中に最終方針を決める。
 定年延長について東大広報室は「海外では六十歳を超えても現役で活躍している大学教員が多い。退官後の再就職口の減少が問題になっているが、実績のある教員の雇用延長で教育・研究を活性化するのが最大の目的」と説明する。
 このほか、東京外国語大も六十二歳から六十五歳への定年延長を検討する方針という。
 文部省によると、国立大学の定年年齢は大学ごとに定めており、六十歳定年は東工大と東大のみ。

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